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第二章 帰り去るに如かず

景七(ジンチー)の身体は闇に包まれていた。混沌の中、全てがはっきりと見えたかと思えば、ベールを隔てたかのようにぼんやりとした時もあった。身体は重く、ふと気を緩めれば眠りに落ちてしまいそうであった。

 彼は最後に見た白無常(ハクムジョウ)の顔を思い出していた。冷たく、無表情な顔。まるで殻をかぶっているかのようで、その下の顔は見えない。けれど眉間に当てられた指は何故か、彼にほんわりとした暖かさを感じさせた。

 昔から黄泉路、鬼門の関はとても陰気の強い場所だと聞いていた。老人が死を迎える時は必ず寒くないように綿の掛け布団を用意する。景七も往来する鬼差は氷の塊のようだと知っていた。三尺ほどの距離に近づくだけで寒さを感じるのだ。

 彼は白無常が何をしたのか知らない。だが少し考えてみると、勾魂使が彼にくれた最後の温もりとあの低い囁きは、何か決意のようなものを感じさせたのだった。

 彼はぼんやりとした頭で考えた。

(それにしても何故そこまでする必要があったんだ……?)

 彼の意識は再び混沌の中へと沈んでいく。どう頑張っても目が開かない。

 時間の感覚も無くなった頃、やっと身体と手脚の感覚が戻ってきた。数えてみれば、もう六十年ほど身体のある感覚など味わっていない。突然はっきりとした意識は、身体の重みと同時に針を刺されるかのような頭の痛みを伝えた。

 人の気配が彼の側をひっきりなしに行き来している。聴こえてくる声は時に近く、時に遠い。こじ開けられた口には、何かを流し込まれている気がする。何処のそそっかしい奴がやっているのか、それはまるで馬に飲ませるかのように、口の中へどばどばと注ぎ込まれる。味覚が戻った途端、煎じ薬の苦味が頭のてっぺんまで駆け上った。思わずうっ、と息を詰めた瞬間、喉に注ぎ込まれた液体に咽せる。けほけほと咳き込み始めた彼に、周囲が再び慌てふためいた。

 苦しさで逆に少し力が出た彼は、何とか重たい目蓋を持ち上げた。

 模糊とする視界は、何回か強く目を瞬いたところでやっと焦点を結んだ。彼はちょうど一人の少年の懐に抱かれて薬を飲まされているところであった。少年は彼が咳き込んで目を開けたのを見ると、慌てて煎じ薬を入れた椀を下ろした。少年は彼の背中を叩きながら声を張り上げる。

「早く侍医を呼んで来い、小親王様がお目覚めになったぞ」

 ただでさえ咳き込んで苦しい上に力の加減もなくバシバシと叩かれ、景七は恨めしげに少年の方を見る。

(こいつ……私に仇のある奴が苦しめに遣わしたのかと思うほどだぞ……っ)

 するとその少年はずずっ、と鼻を啜り上げ、俯いたまま景七に語りかけた。

「御主人様、老親王様はもうお亡くなりになったのです。もし貴方にまで万一の事があれば……私達は誰を頼りに生きて行けば良いのですか」

 漸く少年の顔をはっきりと見た景七は思わず動きを止めた。

平安(ピンアン)か……

 六歳で彼の父親に買い取られ、死ぬまでずっと付いてきた平安。

 少年は目の縁を紅く染めていた。今はまだ十三、四歳。まだ大きくもない子供である。涙をぐっと堪え、目の下に黒い隈を作った彼の衣は、彼よりも一回り大きく見えた。

「平……」

 景七は口を開きかけたが、渇き切った喉は一言発することさえできなかった。

 何百年も経ったのだ、昔のことなどとっくに全て忘れてしまったものだと思っていた。だがこの少年を目にしたその瞬間、色褪せていた記憶は堰を切ったように、どっと彼の頭の中へと流れ込んで来たのだった。

 彼は漸く自分の名前を思い出した。

景北淵(ジンベイエン)

 後世の伝説では千万もの顔を持ち合わせていた、南寧王の景北淵。かつて一人のためだけに一生を生きた景北淵。三十二歳のあの年、死灰のように絶望に冷えた心であの人に死へと送られた景北淵。

 景七は突然、勾魂使の言った「射干玉の黒髪を返す」の意味を理解した。

(余計なことを……泣くべきなのか笑うべきなのか)

 平安はぼうっとしている彼を見て肝を冷やした。

「もしかして病気で頭がおかしくなられてしまったのか」

 何も反応のない彼をゆさゆさと揺さぶる。

「御主人様、御主人様、怖がらせないで下さいよ、一体どうされたのですか?侍医はどうしてまだ来ないんだ、侍医——」

 景七は何とか鉛のような手を持ち上げた。魂で彷徨っていた時より何百倍も重い。目の前でぶんぶんと振られる平安の手を押さえるが、声が出てこない。仕方無く半分ほど目を閉じて、首を軽く横に振る。平安はやっと現状を把握したのか、慌てて身体を起こして水を注ぎ、今度はそっと景七に飲ませた。

 景七はやっと掠れた声を出す。

「今は何時だ?」

 口から出た自らの声に驚く。掠れているが、明らかにまだ声変わりの済んでいない幼童の声だ。どことなく乳臭い響きをしている。頭を下げて見た自分の手は小さく痩せており、病気で気と血が十分でない不健康な青黄色をしていた。

※気と血が十分でない……中医(漢方)の概念。
健康な身体では気と血が良く行き渡っている。

「申の刻です。御主人様、貴方は霊堂で倒れて二日も熱を出されていたのです。どれだけお呼びしても目をお覚しになりませんでした」

※申の刻……午後三—五時。

※霊堂……廟。

 平安は唇をきゅっと結び、俯いて目の端から溢れた涙をこっそり拭う。

「お妃様は早く逝かれ、老親王様も……老親王様も何も未練のないかのように呆気なく逝ってしまわれて。今は貴方様がこの家の大黒柱です。万一のことがあれど奴才(やつがれ)はお供いたします」

 そうか……ここは私が十歳の、父上が世を去られたばかりの時だったのか。

 景七は再び自分の手に目を落とす。身体は力が入らず重たいが、それは僅かに新鮮な感覚を伴っていた。

(何回もの輪廻の後にまた最初の場所へ戻ることになるとは……複雑な気分にさせる)

 心の中に少し芽生えかけた新鮮な感覚も、白無常の顔を思い出すと同時に薄れていった。

 時間の巻き戻し——たとえ彼に知識は無くとも、ある程度のことは分かる。あの勾魂使は絶対にとてつもなく大きな代償を払った筈だ——彼に償う為に?悪縁に振り回されたあの一生をもう一度過ごさせる為に?

 平安がぺちゃくちゃと話しながらぎこちない手付きで彼を横たわらせる。景七は彼の動作に身を任せ、そっと溜息を吐いた。

(勾魂使大人はお高く止まっていると思っていたが……余計な世話を焼くものだ)

※大人(だいにん)……相手への尊称。[⇔小人]

 もう一度やり直せば、起こった事も卓(つくえ)の被った埃のように雑巾一枚で拭い去れるのか。

 人の心は石ではない。水を少し掛ければ綺麗に洗い流せる、そんな単純なものではないのだ。

 暫くと経たないうちに侍医がやって来た。脈を取って隈なく検査を終えると、自分は信頼に値するとでも言うかのように医術を一通り語ってみせる。「善良な人には天の加護がある」などと無用の話を続けているのを見るに、何も異常はなく養生さえしていれば良いということだろう。

 景七は三生石の辺で六、七十年も座っていたのだ、それくらいの我慢強さはある。

 周囲の人々が公の行事でも執り行うかのように事を進めるのを黙って眺め、煎じ薬を飲み後始末をしているうちに夜も更けた。

 平安は関係の無い者を下がらせ、彼を横たわらせる。そこでやっと景七は口を開き、何気なく問いかけた。

「先程私が二日間昏睡していたと言ったか?それなら父上の初七日は明日だな」

 平安は一瞬の間の後、彼が心配していると思ったのか、宥めるような口調で答えた。

「ご安心なさいませ、御主人様。老親王様の後の事は皇帝陛下が自ら選ばれた者に執り行わせます。昨晩など陛下自らお越しになって貴方にゆっくり休んで頂くようお事付けなさったのですよ。自分の身体以外のことは何も心配する必要はない、と仰っていました」

 言葉に頷き、天蓋を見上げてぼうっとしていた景七だが、平安が灯を消そうとすると突然振り向いて制止した。

「少し待て」

 平安は手を止め、訝しげに彼の方を振り向く。

 景七は細く力の入らない腕を支えに、何とか身体を起こして壁にもたれ掛かる。部屋を見回し平安をじっと見つめる彼の様子は、まるで少し目を離せば全て消えてしまうかのようであった。

 数えてみれば、平安もこの時もうすぐ十四歳を迎える頃だ。背丈は高くなったものの、相変わらずつぶれた目に団子鼻のふくふくとした顔で、単純そうな見た目をしている。手脚は長いものの、生まれつきどこか骨が抜け落ちてしまったかのように動きは不調和で、利発という形容からはほど遠い。

——けれどこの不器用な子供は、真心を持って自分に接した数多くない一人だった。

 平安の声はいつも鼻にかかっている。小さい頃から泣き虫で、丸々とした顔の眉はいつも八の字に下がっていた。しかし自分と共に南寧王府を支えなければならなくなったこの年、彼は一夜のうちにしっかりとした若者へと成長した。故親王の初七日が過ぎ、景七が皇帝に宮中へと迎えられたその時も、王府のことは年配の管理人の代わりに平安が一人でほぼ全て処理していたのだ。

 景七はこの少年を見ながら、心の中で思った。

(平安が一生を王府に捧げてやっと人手の少ないこの家を支えていくことが出来た。それほど苦労させたのに……最後には私があんなにもあっさりと壊してしまった)

 平安は彼が自分を見ながら意識を飛ばしているのを見ていた。

(病気の後で気力が弱っていらっしゃるのだろう)

 軽く声を掛けてみる。

「御主人様、灯をつけたまま寝るのはよろしくありません。暗いのを怖がられる必要はございませんよ、奴才は外屋にいますから何かあればお呼び下さい」

※外屋……外に直接通じる部屋。

「私に死んだ豚のように眠りこける者を起こす腕前があると思うか?」

 平安は一瞬反応に遅れたが、自分が揶揄われたことに気がつくと顔を赤らめ、もごもごと反論した。

「奴才でも息くらいはいたします……」

 景七はそんな彼を見てふっと笑った。静かに広がった眉間に、細められた目は弧を描く。ゆっくりと口角が上がり、目には潤んだ光が浮かんだ。けれどじっと目を凝らせば、その光はまた消えてしまった。

 自分を見て薄く笑う彼の様子に、平安は何故か寿命も近い邸の管理人と似た面影を感じた。自分に落ちる彼の視線は何処か上の空で、まるで一瞬にして沢山のことを思い出したような、諦め、そして満足の念が入り交じっていた。

 何処の子供がこんな風に笑うだろうか?

(熱に浮かされているのか)

 平安は焦り、景七の額に手を伸ばす。

「御主人様、どこか具合が悪いのですか?侍医をもう一度呼びましょうか?」

 景七は首を横に振り、目を伏せて溢れる情緒を拭い去った。平安が横たわらせるのに身を任せる。

 平安は彼を掛け布団でしっかりと包み、立ち上がろうとした。が、その手は小さい両手にきゅっと掴まれた。

 見ると、床に仰向けになった小親王は軽く目を閉じていた。低い声で語りかけられる。

「平安、大丈夫だ。私が居るじゃないか」

 小さくて軽い、舌足らずな子供の声はともすると可愛げにも思えた。しかし彼の表情を見て、平安は思わず鼻の奥がつんとしたのだった。

 景七はふっと笑い、背を返した。

「早く休みなさい」

 灯の光は闇へと変わり、辺りは静寂に包まれた。

 長い間昏睡していたせいか、景七は静かに横たわったまま寝付けずにいた。窓からは微かに外の光が漏れてくる。天蓋に掛かる帳(とばり)をぼうっと見つめていると、外屋から平安の子豚のような鼾が聞こえてきた。景七は思わず笑う。

 七世もの輪廻を経て、景七は漸く沢山のことに納得がいった。赫連翊(ハーレンイー)のこと、平安のこと、そしてとても大きいけれど閑散としている南寧王府のこと。

 何故赫連翊に執着していたのか?

 長い間解らなかったが、この一世で目を開けたその瞬間、漸く解ったのだった。

 あの名は璉宇(レンユー)、字は明哲(ミンジャー)の老親王は不器用な人間だった。そして息子の彼もそれを受け継いでいる。目は大きくとも意味はなく、見えるべきところは見えず、逆に見ない方が良いものが良く見える。

 一生一人しか目に入らず、他のものは心に留まらない。たとえそれが失望に終われども……

 世の人は皆老親王を痴情者だと言った。王妃を喪った彼はまるで魂を失ってしまったかのようで、別姓の兄弟である彼に心をかけた皇帝は、世子の景北淵を宮中へと迎え入れて皇子達と同じ場所で暮らさせたのであった。

 彼が十歳の時、この生きる意味を失ってしまったかのような老親王は漸く望み通り御陀仏となり、十歳の子供と閑散とした王府をこの世に捨て置いていった。

 世間は広くとも、彼に家と呼べる場所は一つも無かった。

 三百年前は、赫連翊が自分のこの世で唯一の望みだと思っていた。溺れる者にとっての藁のように、掴もうと足掻いていた——生きていた時も、死んだ後も。

 頑固さ加減は景璉宇と瓜二つ、愚かさ加減は白無常と殊途同帰。

※殊途同帰(しゅとどうき)……そこに至る道は異なれど、結局帰着するのは同じところである、ということ。

 一人心に決めれば、その他は友も平安も、皆気にかけたことなどなかった。景七は平安の穏やかな鼾を聴きながら、ふと思ったのだった。

(私はこの世で一番の恩知らずだったのかもしれない)

 幾世にも渡り味わった苦しみは……全て報いだったのか。

 ぐるぐると考えているうちに意識に段々と靄(もや)がかかり、彼は浅い眠りについた。暫く寝てはまた醒める。

 彼は身体の調子がまたおかしくなってきたのを感じた。まるでかまどの上で焼かれているようで、身体中の関節が痛む。

(また熱が出て来たな……まあこの夜を越せばじきに良くなるだろう)

 平安を呼ぶのも面倒で、景七は暑いのを堪えて布団に潜り、早く熱を冷まそうと汗をかいたのだった。

 朧げな意識の中、バンッと何かのぶつかる音が響き渡った。景七は驚いて目を醒ましたが、だるそうにして目を開けることはなかった。

(平安のドジさ加減は一日物を壊さなければ暮らしていけないくらいだからな)

 その時、ひんやりとした手が彼の額に触れた。

(気持ちが良い……)

 側から怒りを含んだ声が発せられる。

「こんなに熱を出させて、どんな仕え方をしているんだ!早く侍医を呼ばないか——」

 景七はその声を聞いた瞬間思った。

(やはりこのまま熱で灰になってしまいたい……!)


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