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第三章 故人猶ほ在るがごとし

 灰になっても聴き違えない、あの声。

赫連翊(ハーレンイー)。忘川のほとりで白無常(ハクムジョウ)がその名を口にした時は何も感じなかった。長い年月が経ち、忘れようと苦心したその名前は既に記憶の奥底に眠り、簡単に出てくることはなかった。けれど、その声は依然として彼の記憶に残っている。彼のふとした動作。自分の額に触れて、無意識に髪を掻き分ける癖。どれも骨の髄まで沁み込んだもので、忘れ去ることなど出来ない。

(あの時赫連翊との縁に振り回されていなければ、三生石の辺で一甲子座り通した「七爺(チーイエ)」は無かっただろうな)

※ 一甲子……六十年。
古代の年の数え方で、歳を表す際に使われることもあった。

景七(ジンチー)は時々、そう思うのだった。

 悪縁というものは、喩えるならば家を出た先で出会う鳥の糞のようなものだ。何とか避けようと策を尽くし、隙のないように防御していても、奇兵のようにどこからか飛んで来る。自分の頭に命中してつうっと垂れる糞を見て、ツキの無さが影のように付き纏っているように思えてくるのだ。

 景七は心の中で溜息を吐いた。平安(ピンアン)が音を立てた時に呼吸の速さは変わってしまった、狸寝入りはできない。彼は諦めて目を開ける。

 彼の目に映ったのは、十歳でありながら芝蘭玉樹と呼べるような少年だった。ただ、

(この赫連翊は……幼すぎる)

 景七はそう思ったのだった。

※芝蘭玉樹(しらんぎょくじゅ)……優れた見目や能力をもった弟子のこと。

 少年は彼が起きたのを見ると、すっと怒りの表情を収めた。身を屈め、柔らかな声色で話しかける。

「身体はどうだ、どこか苦しいところはないか?」

 人として生まれ、かつて深く愛し傷つけた人を見れば、様々な感情が湧き上がり、心臓がまるで自分のものでないかのように跳ねるものだ。

 けれど、もう数百年も経ってしまった。

 再び彼を見ても、景七は少し戸惑うばかりだった。

(赫連翊は元々こんな感じだったか?何故か……よく知らない姿に思える)

 赫連翊はぼうっと口を閉じている彼を見ていた。

(熱で意識がぼんやりしているのだろう)

 そっと彼の額に手を当てた赫連翊は眉を寄せた。振り返って下人を急かす。

「薬はまだか?このままだと熱で頭がやられてしまう」

(元々やられている頭だ、もっと燃えてくれ……そうすれば転生することも無くなって丁度良い)

 背後を向いて下人を急かす彼を見ながら、景七は思ったのだった。

 ふと、景七は我に返った。

(これはお偉い様が立っている前でのうのうと寝ている状態じゃないか……?)

 慌てて身体を起こし、唾で喉を湿らせて口を開く。

「太子殿下……」

 赫連翊は起き上がろうとする彼を押し戻し、失笑した。

「病気になって初めて礼儀を気にするか。横たわって動くんじゃない」

 当代の皇帝には色々と欠点がある。例えば思いつきで行動すること。しょっちゅう上の空になること。世継ぎは年齢をもって定めないと言い張り、生まれて一月にも満たない肉団子のような赤ん坊の赫連翊を太子にすると勅令を下したこと。更にその後、一夜にして自ら立てた太子のことは忘れて十年もの間放り置いていること。

 失礼なことを言えば、今の太子殿下は皇帝が上書房で飼っている九官鳥よりも存在感が無い。

※上書房……上の書房、つまり皇室の者が勉強する場。

 それに加えて赫連翊には二人の長兄があり、その凶悪さは狼や虎を彷彿とさせるほどである。第二皇子の赫連琪(ハーレンキ)は十歳年上で、第一皇子の赫連釗(ハーレンジャオ)はとっくに立派な成人となっている。誰も名ばかりの太子を敬う訳がなく、彼は皇帝の「鸚鵡(おうむ)大将軍」や「奥様太師」、「講釈師宰相」の次の笑い話として扱われていたのだった。

※太師……大官の名誉の称号。

 彼と唯一親しかったのは、小さい頃から宮中で育てられた南寧王の世子、景北淵(ジンベイエン)であった。小さくして父母を亡くし、教育してくれる人はおらず、幼い頃から黄袍を着てふらふらしている天下一頼りない皇伯父の背中を見て育った景北淵は、彼の色に染まってしまった。赫連翊とは身分は勿論のこと性格も正反対であったが、それでも幼くして母親を亡くし、父親には放り置かれているという点では同じで、お互い僅かには同情心を持っていたのであった。

※黄袍……天子の着る黄色の衣服。

 赫連翊は溜息を吐く。彼に掛け布団を掛けると、子どもをあやすかのようにぽんぽんと叩いた。

「こんなことは言うべきじゃないかもしれないが、あまり気を落とすなよ。老親王が逝かれたのも彼自身にとっては解放だったかもしれない。葬儀の一連を終わらせたら私と宮中へ戻ろう。今までと何も変わりはないさ」

 景七は黙ったまま、ただ静かに少年の横顔を見つめていた。

 この時は二人とも頼れる人がなく、小さい頃から一緒に育ってきたお互いとは親しくなかったと言えば嘘になる。それなのに、最後には死んでも顔を合わせないような仲になってしまった。

 奈何橋の辺に座って待っていた頃の、愛しさと憎しみが折り重なった気持ち。大事にすることも捨てることもできなかったそれも今、霧が風に散るように消えてしまった。残された胸の中は、空っぽだった。

 熱で潤んだ大きな目をぼうっと見開いている景七を見て、赫連翊は彼の額をトントンと突いた。

「北淵?」

 景七は目を瞬いた。

「ああ……はい、わかっています」

「何がわかっているだって?」

 赫連翊は苦笑すると、平安から煎じ薬を入れた椀を受け取った。平安に側で立っているよう命じ、薬を飲ませようと景七の上体を抱き上げた。

 少年に抱き寄せられ、温かい息がかかる。

 景七は考える間もなく身を躱した。後ろに仰け反り、バランスを崩して片手をつく。そこで漸く、この時はまだ赫連翊と仲を違えていなかったことに気が付いた。

(子供の親密な動作に過剰に反応してしまった……)

 視界は熱でぐるぐると回り、頭の中は前世の記憶と目の前のことでぐちゃくちゃだった。

 だが当の赫連翊は全く気にした風もなく、顔を白くして縮こまった彼を見てただ薬を飲みたくないのだと思ったようだった。ぐい、と景七の襟首を掴んで笑う。

「何を避けてるんだ、薬を飲むのが嫌だなんて小さい子供か」

 景七は慌てて苦い薬を嫌がる振りをした。目をくるりと回して黒い液体をちらっと見た後、顔を上げて赫連翊を見つめ、後ろに縮こまる。

 赫連翊は彼の薬を一口啜ると、背後を向いて平安に命令した。

「お前の主人に砂糖漬けを持って来い」

 誰に対しても穏やかな太子殿下だが、平安は何故か彼を本能的に怖く思っていた。無駄口も叩かず、急いで返事をすると卓の上の砂糖に漬けた菓子を皿に盛った。

 赫連翊は宥めるように景七に話しかけた。

「苦くない。ほんの数口だけだ。飲んだら砂糖漬けをやるから、な?」

 景七は身体中に鳥肌が立つのを感じた。心と正反対のことをする、とは正にこのことだろう。黙って椀の縁を持つと、赫連翊の手を借りて薬を飲み干した。

 赫連翊の回りくどい励ましに、景七が含んだ言い方で返す。ぽつぽつと言葉を交わしているうちに、薬の眠気が襲ってきた。

(目蓋が重い……)

 赫連翊は床に腰掛けると、軽い調子で言った。

「眠ったらどうだ。お前が寝付いたところで私も行く」

 景七が言われた通りに目を瞑ると、耳元で溜息の音が響いた。

 当然、彼は赫連翊の溜息の理由を知っている。皇后は若くして薨去(こうきょ)し、皇帝は国の統治だけには興味を示さない。第一皇子と第二皇子は悪巧みをする者の小競り合いを楽しんでいる。大臣達は内部の権力争いには皆が皆頭が切れるが、仕事は皆が皆情けないほどできず、その能無し度合いは到底目も当てられたものではない。

 赫連翊がもし本当に彼の振る舞っているように、穏やかで事を荒立てたがらず、意気地のない性格だったならば何も問題はなかった。ただ、そうではないことを景七は誰よりも知っている。彼が胸に宿しているのは、万里に広がる河山。頂に上り詰め、その名を世に轟かす天命を持った人間である。

(一体どんな風の吹き回しでこんな立派な太子を立てるおつもりになったのか……)

 上書房の畜生に将相の面々を罵倒させるのをこの世で一番の楽しみにしているあの皇帝が、である。彼を立てる気になったのは正に思いもかけない幸運である。

 静まり返った部屋の中、赫連翊の衣から仄かに香の匂いが漂ってくる。景七は段々と遠のく意識に身を任せ、体裁も構わず寝落ちた。

 日も暮れた頃。

 景七は平安に揺さぶられて目を醒ました。衣服は汗でぐっしょりと濡れており、熱も下がったのか頭はすっきりとしている。

 今夜は老親王の初七日の夜である。

 彼が寝ている間に挨拶は終わったようで、賓客達は帰りの支度を整えていた。だが、自分は孝子として霊堂で夜を明かさなければならない。景七は適当に髪を梳いて身支度を整えると、ふらふらと立ち上がった。手を伸ばして支えようとする平安に不要だと手を振る。

「大丈夫だ、支障は無い。案内をしてくれるか」

 霊堂には、重く沈んだ空気が漂っていた。門には大きな白い灯籠が掛かっている。風の吹く度にちろちろと揺れる光は、幽冥へと導く焔のようであった。

 早くから待っていた管理人が彼を出迎えた。香と紙、蝋燭が用意してある。管理人は景七の姿を認めると、狐裘を持ってくるよう人に命じた。

※狐裘(こきゅう)……狐の皮衣。

「今夜はこれをお召しになってくださいませ」

 狐の皮を剥がれる苦を味わった身としては、衣を見るだけで嫌悪の情が湧く。しかし、管理人の顔に泥を塗る訳にもいかない。景七は僅かに眉を寄せたが、大人しく立ち止まり、管理人がぶるぶると震える手で衣を掛けるのに任せたのだった。

 そうして、衣の下から出した手でこっそりと皮を握る。

(苦しかったろう、今晩はお前にも冥銭を燃やしてやるから持って行くと良い。地府で贈り物でもして、来生はこんな皮を着て生まれるんじゃないぞ)

 管理人に手を引かれ、霊位の前に立つ。管理人は身を屈め、景七に話しかけた。

「小親王様、老親王様に叩頭して差し上げてくださいませ。以後は貴方がこの王府の主人となるのですから」

 皺の寄った老人の顔には晩年の諦観が浮かんでいた。景七は手を引かれるまま跪き、見た目が丸かったか平たかったもとっくに忘れたような名ばかりの父に叩頭した。

 初七日には亡魂は家に戻り、生者は彼等を天へと送り出す。亡くした妻を一心に追っていったあの老爺が息子の存在を覚えているかは知らない。既に陽界に戻った自分がまだ陰界の人魂を見られるかは分からないが、心のどこかで少し懐かしく思っていた。

(何も思うところは無かったが、再び生まれ直した今……旧知の者達に会うのも悪くない)

 その頃、小厮は客人の来訪を告げていた。

※小厮……男子供の使用人。

平西(へいせい)大将軍のお訪ねです」

※平西将軍……西を征伐(平定)する重役将軍。
平西、平東、平北、平南で四平将軍と呼ばれた。

 管理人が景七の下へ確認に向かう。

 景七ははっとし、慌てて中へと招かせた。

「早くお入れしなさい」

 その言葉の端々には興奮が滲んでいた。

 平西将軍、馮元吉(フォンゲンチー)は老親王の生前少なかった友の中の一人であった。景七の中途半端な出来の功夫は彼の手ほどきでやっと身に付けたものだ、師父と呼ぶべきだろう。

 暫くすると、一人の強壮な男がずかずかと大股で入ってきた。平安がその後をちょこまかと追ってくる。

 礼儀に拘らない馮元吉を見て、景七は礼をする代わりに少し寂しげな笑みを浮かべた。彼の未来ははっきりと覚えている——

(馮元吉の天寿ももうすぐだ)

 馮元吉は彼が父親を喪ったばかりで失意に暮れているのだと思ったようだった。溜息を吐き、蒲の葉のように大きな手で景七の頭を撫でる。

「大変だったな」

 そう言い、老親王の霊位に礼をする。

 景七は礼を返すと、平安に命令した。

「将軍殿に円座を持ってきなさい」

「それは……」

 口を開きかけた管理人を制する。

「大丈夫だ、私は将軍殿とお話をするからお前達は下がりなさい」

 管理人は王府に一生忠義を尽くした者で、規則を大切にする。景七は十歳の子供に過ぎないが、老親王の亡くなった今、彼にとって小主人の言うことは絶対である。余計な事は何も言わず、頭を下げるとその場を下がった。

 霊堂には二人と火鉢だけが残された。円座にどっかと腰掛けた粗野な将軍は戦うことしか知らない。じっと考え込んだが、それでもやはりどう声を掛けて良いかわからないようだった。

明哲(ミンジャー)の奴は生きている時も役立たずだったが、今はもう逝ってしまった……お前もそんな薄っぺらい身体をして、自分で大事にするんだぞ」

 口下手ながらも言葉を紡ぎ始めた馮元吉に、景七は口角を上げて微笑を返す。脚を伸ばし、のんびりと地上に座ると、冥銭を火鉢に入れながら言葉を投げた。

「私は大丈夫ですよ。どちらかと言えば将軍殿、貴方こそもうすぐ都を離れなければならないのでは?」

 馮元吉は驚いた様子を見せた。

「何故お前がそれを知っている?」  


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