
第四章 浮世の栄華
第一世のこの時、景七はまだ本当に幼い少年であった。一夜の間に父親を亡くし、頼れる人もなく先の見えない未来への怯えが七割、自分の身の上に思いを馳せて募る悲しみが四割。子供は中々割り切ることができないものである。色々な感情が積み重なって寝込んでしまい、初七日の夜さえ老親王に付き添って明かすことができなかった。そのため、夜中の馮大将軍の訪れなど知る由もなかったのである。
馮元吉は老親王と長年の仲で、俗礼に拘らない人間である。夜遅くの弔問は、仮面や嘘に塗れたこの時勢に得難い真心を感じさせた。
(この一世、彼が離京する前に顔を見られるとは思っていなかった)
馮元吉の問いに、景七はふっと笑った。
「私は太子の侍読です。太子も今や朝廷の会議を聴くお歳になられました。本来私が聴くべきではないようなことも、ある程度は存じております」
※侍読(じとく)……皇子の学習の付き添い役または講師。
ここでは付き添って一緒に学習する者を指す。
ははっ、と馮元吉が笑う。景七の何気ない一言が彼の憂慮を言い当てたのか、抑えきれない悲しみと憤りが顔に浮かぶ。ただ彼の頑健さが、幼い少年にそれを見せるのを押し留めた。顔を背け、霊堂の外の暗い空を望む。沈黙の後、平静を努めて低く抑えた声を出した。
「お前のような子供でさえ気にするようなことなのに……聴くべき人に限って聴こえないものだ」
憐むべし 夜半に虚に前席し
蒼生を問はずして鬼神を問ふ
(注)李商隠《賈生》より。
漢文帝の政治への嘆きを詠ったもの。
漢文帝は賢臣を求めるという名義で、宣室殿にて賈誼と討論していた。漢文帝は聴き入るあまり、膝頭は無駄にそろそろと賈誼に近づいていた。残念なのは、最後に彼が問うたのは衆生のことではなく鬼神のこと(仙の世界に自己の救いを求めていた)だったということだ。
要するに、彼との討論は徒労だったのである。
景七の眉がぴくりと跳ねる。彼が口を開くより先に、馮元吉が振り向いて低く釘を刺した。
「この言葉は私が言うべきではなかったものだ。何も聞かなかったことにしろ、わかったか」
霊堂の蝋燭は微風に揺れてちらちらと光り、半分になった冥銭が火鉢の中で燃えている。少年は顔を火に照らされ、ただ静かに座っていた。こちらをじっと見つめる眼の色は、漆のように深い。まるで何もかも知っていると言わんばかりの眼に、思わず絆される。
彼は景北淵を自分の息子や甥のように思っていた。今や景明哲は身勝手に逝き、自身も遠く南疆へ赴けば生きて帰って来られるかも分からない。霊堂で喪に服した、早熟で聡明な少年は分外孤独に見えた。
馮元吉は声を和らげる。
「南疆の叛乱を平定するよう皇帝陛下は勅令を下された。今回の……道のりは遠いだろう。私は京に居ないからお前の世話をしてやることはできない。ちゃんとやっていくんだぞ」
少しの間の後、やはり安心できないと言うように口を開いた。
「お前が太子と良くしているのは知っている。太子も良いお方だ。だが……」
馮元吉の学は高くないとはいえ、政界に身を投じて数十年になる身である。彼は出かけた言葉を呑んだが、景七には馮元吉の言いたいことが分かった。皇帝は壮年であるが、実際には女と舞に浸っている見かけ倒しに過ぎない。誰がこの江山の次の主となるのかは未だ分からず、その時になれば四人の皇子の間で激烈な争いが繰り広げられるだろう。馮大将軍は彼が泥沼へと引き摺り込まれてしまうのを心配しているのである。
景七は軽く笑い、火鉢に冥銭を加えた。
「私は祖先の栄光を浴びている名ばかりの暇な親王に過ぎません。この帝都に養われ、時折伯父上のお膝元で歓心を与える世間知らずです。各位の眼には上書房の『監査御史』と同じように映っているでしょう。まともな思考を持った人ならば私のことなど警戒しませんよ。御心配には及びません」
「監査御史」とは、皇帝陛下が一番寵愛している、文武百官に悪態をつく九官鳥のことである。だが馮元吉はこの遠回しの皮肉を聞き、逆に気持ちが沈んだのだった。
(まだ幼いのにそんなことまで考えているとは)
眉を下げて微笑する落ち着いた様には、少年の初々しさなど残っていなかった。
景七は話題を戻す。
「私の方は問題ありません。ただ将軍殿、南疆での戦いは死局です。それはご存知ですか?」
馮元吉は動揺した。
「どういうことだ?」
「南疆は小さいとはいえ、攻め落とすのは容易ではありません。太祖が天下をとられた時からのことを思い出されてみてください。太祖は九州を短い間に見事に治められ、かつての同胞を跪かせましたが、南疆の征服だけは成し遂げられませんでした。太宗は武に優れ、在位四十六年間に二回北へ遠征し蛮人を降伏させましたが、南州では恨みを遺して命を落とされてしまいました。南疆の地は山が多く水は淀み、空気は熱く湿っています。進軍に向かないのは勿論、私達中原の将士らは身体が土地に慣れず不利なのです、ましてや……」
景七が語るまでもなく、馮元吉は勅令を受け取ったその時から死を覚悟していた。だが、彼はそれを少年の口から聞くことになるとは思ってもいなかった。
言葉を続けようとする景七を、馮元吉は思わず遮った。
「誰がそんなことを教えた?」
景七は茶を濁す。
「周太傅です」
馮元吉は首を横に振った。
太傅の周自逸は名前こそ洒脱であるが、一番古くさく融通の利かない人間である。口を開けば聖人の名言、子供と当代の王朝のことを語るなどあり得ない。それに加え、一介の腐り切った書生である彼が、出征などの軍事を解っているとは到底思えない。
景七はただ微笑を浮かべ、それ以上のことを語ることはなかった。
馮元吉は話の続きを促す。
「続けてくれ」
だが景七はすぐには続けず、代わりにゆっくりと身体を起こした。動いたはずみで視界がぼやけ、倒れそうになるのを何とか堪える。立ち上がって霊堂の扉を閉めると、元の場所に座り直した。力仕事でもしたかのようにふうと長く息を吐き、やっと落ち着いたところで声を低く抑えて話を続けた。
「主上が遊びに耽るのは傍目からは荒唐なように見えますが、陛下御自身にも疚しい所が無い訳ではないのです……」
馮元吉が叱り付ける。
「不遜な!当代の主上をお前が語るか!」
景七は手を伸ばして下に抑え、一旦落ち着くように促した。長い袖が白く弧を描き、一条の清風が吹き抜ける。少年は声を荒げた将軍の前でも落ち着きを失わず、再び口を開いた。
「……因って歴史書に残り、国の為になったと解るような業績を上げる必要があるのだろうと考えられます。将軍殿のことは実の叔父のように思っています、私も遠慮無くはっきりと言いましょう。あの方々——貴方が手に握る半分の兵符を気にかけている方々のことです——が手を替え品を替え近付こうとしても、貴方が相手にせずに自身の兵を固めたせいでどうにも手を付けられず、貴方は必然的に彼らに疎まれた。そこで彼らは主上の意志を汲み、この機会を利用して貴方を消そうとした……違いますか、馮将軍?」
※兵符……古代に兵を派遣する際に使われた道具。
発令者と受令者の双方が半分ずつ持ち、二つ合わせることで証拠とした。(勘合のようなもの)
霊堂は静まり返った。
景七は溜息を吐く。
「私は不肖の青二才に過ぎません。このような話をするのは差し出がましい上、不敬極まりないことです。本来ならば決して口にすべきではないのですが……」
景七の細長く麗しい眉が跳ねる。冷笑した彼の口からは、鋭い皮肉が吐かれた。
「将軍殿、貴方は自身を犠牲にして、主上が小人に欺かれ自ら長城を壊すのを見過ごされるのですか?」
じっと彼を見つめる馮元吉の表情は暗く、感情は読み取れない。暫くして、重い溜息が吐かれた。
「子供であるのに……何故いつも大人の考えるようなことに気を回して話すんだ」
「若し国が太平で万事が上手くいっていれば、私は一生子供で居ても構いません」
馮元吉は景七の刺すような言葉には構わず、静かな声で問い直した。
「それならばお前は一体私がどうするべきだと思うんだ?」
景七は口を開きかけたが、馮元吉は掌を立てて遮った。
「いや、やはり言わなくて良い」
馮元吉は彼を眺め、感慨深そうに言った。
「北淵、お前は眼だけは明哲に似て他は母親に似ているが……性格は何方にも似ていないな」
馮元吉は立ち上がって手を背後で組み、そこに正座している少年を見下ろした。痩せ細った身体は未だ発達しておらず、整った面立ちは女子のようである。だが、僅かに顔を上げ自分の方を仰ぐ様態からは何故か落ち着きが感じられ、同輩と語り合っているような錯覚が生まれるのだった。
(ただ……それは錯覚だ)
景北淵は宮廷の奥深くで育った子供に過ぎない、それは馮元吉も良く分かっている。
「今から言うことは二、三年経ってから言うつもりだったが……間に合わないかもしれないから伝えておこう。お前は早熟で智慧もあることだから意味も分かるだろう。ただお前が聞き入れるか、どの程度聞き入れるか、それは求めない——私は当時明哲がお前を宮廷に送り込むのには反対だった。だが彼は既に魂を失ったかのようで、お前の世話をきちんとしてやれる様子ではなかった。お前を見れば故王妃を思い出してただ悲しみが募るばかりだ、とな……本当はお前を引き取りたかったが、この馮某は名前こそ知れていて人々には『大人』『将軍』と呼ばれるものの、軍隊出身で教養の無い人間に過ぎない。まだ一歳にも満たないお前を抱いた時、触れば壊れてしまうのではないかと怖かった。南寧王府の世子は尊すぎる、自分の下では育てられないと思って諦めたのだ。お前がもう少し大きくなるまで待とうと思ってな……」
馮元吉が長い話を我慢強く語るのは珍しい。一字たりとも聞き漏らすまいと集中していた景七はふと、自分がこの長者を失うのは早過ぎて、彼のことを何も解っていなかったことに気が付いた。
「だがお前が大きくなるまで待てなかった」
馮元吉は自嘲するように笑った。突然、声が厳粛なものに変わる。
「お前は豊かな家に生まれ、婦人の手の下に育った——それも全て因縁というものだ、問題など無い。ただ忘れるな、お前は男だということを!」
景七は呆気に取られた。
(……どういうことだ?)
馮元吉はぐるりと振り返り、灼けるような眼差しを露わにする。
「景北淵、男とはこの世に生まれ、名声は求めず威勢を求め、栄華は求めず無悔を求めるものだ。この馮元吉は主の俸禄を食し、人々の平西大将軍という声に応え、為しているのは異族を退け内を平定すること、関を守り賊を鎮めることだ。お前が宮中で見た陰険な潰し合いや汚い手段など……、はっ、出来ないのではなく為すに値しないのだ!」
一字一句の力強い彼の言葉に、景七は長い間答えることはなかった。霊堂には時折ぱち、と火花の弾ける音がするだけで、二人の大人と子供は、一人座り一人立ったまま沈黙していた。
景七はやっと口を開くと、小さな声で言った。
「将軍殿、剛過ぎれば折れ易しというものです」
馮元吉は嗤う。
「寧ろ折れども湾らじというものだ」
景七は突然、この男が記憶の中の姿よりも偉大であったことに気が付いた。いつも自分の思うままに行動し、他人がどう説得しようとも進言を聞き入れない。行く先が黄泉であろうと突き進み、壁にぶち当たろうと方向を変えず、駄目だと解っていても諦めない。何ともならない頑固者である。だが……何事にも屈しない筋金入りの硬骨漢である彼は、頑強という言葉に値する人間であった。
(英雄は亡びる前もやはり英雄であるものだ)
景七は自嘲の笑みをこぼした。
(この才が惜しいせいで失言をしてしまった)
馮元吉は溜息を吐くと、表情を和らげた。扇のように大きな手で彼の頭を撫でる。
「お前はまだ小さいのだから、彼らのようには……」
(彼らのようには……何だ?)
馮元吉は続ける言葉が出て来なかった。
(彼らのようには詭計を尽くすな、陰険な人間になるな——か?だがこの子供は……自分とは違うのだ)
「将軍殿」
幼さの残る声が彼の意識を引き戻す。
(小さいうちから忠奸や善悪を識り、私の為を思っていたのに話し方がきつかったかもしれない)
この思慮深い子供が考え過ぎてしまうといけない。そう思い、馮元吉は表情を和らげて応えた。
景七は少し考え、喉元まで出かかった言葉を呑み込んだ。
(馮将軍の道は自分とは異なるのだ)
ただ静かに別れを告げる。
「将軍殿。南疆までの道のりは遠いですが、どうかご達者で」
この世の中はちょうど花の散った春の暮れのようなものだ。人々は咲き乱れた花に心を奪われ、襲い来る凶悪な夏を知らない。上に明君は無く、下に賢臣は無い。そして彼は転生して来ても権力も地位も無い子供に過ぎず、南寧王という名号があれども豪華に着飾った木偶と何も区別は無い。
やはり、どうすることも出来ないのだ。
彼が慷慨し死に赴くのを止められず、大慶の国が傾くのも止められない——
年の瀬も迫った頃、南疆での大勝利の戦報が伝わって来た。流石は絶世の名将と呼ばれた馮元吉である。
南疆の大巫師は交渉の結果、自身の後継者である巫童を帝都に人質として送り込むことに同意した。
※大巫師……祈祷師。
首領としての能力、及び法術に優れている。
国を挙げての盛宴である——唯一の遺憾は大将軍馮元吉の戦死、そしてこの国、慶の持つ官兵の精鋭四十万がほぼ全て南疆に散ったことだろう。
だが、帝都の天井高い本殿に座る最も高貴な男には、これも勝利の背後の小さな影に過ぎなかった。四十万人と一人の将軍の犠牲で彼の虚名を歴史に残せたならば、死ぬ甲斐もあったというものだろう。それに加え、眉を吊り上げて悪癖を諌める男が居なくなり、彼の生活も気持ちの良いものになった。
第一皇子 赫連釗 は更に喜んでいた。堅固であった軍権に、遂に彼が手を挿める機会が来たのだ。
年関将に近づかんとし
皆大いに歓喜す
世間は百足の虫は死して僵れず、十分な勢力があれば簡単には潰れないのだと言う。しかし、千里の堤も蟻の穴から。どれだけ大きさを誇れども、ほんの些細なことから崩れてしまうことがある。
それも一方は外の風波に晒され、他方は内から腐り始めたという違いに過ぎない。
この年、冬は冷え込み、帝都は変わらず太平を謳っていた。
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